小学生の頃、遠足の前になると、こういうやりとりがしばしばありました。
「おやつは300円以内ですよ」
先生がそう言うと、少しでも多くおやつをもっていきたい子どもたちは、すかさず先生に質問します。
「バナナはおやつに入りますか?」
バナナがおやつに入るか入らないかによって、予算内で持って行けるおやつの内容が大きく違ってしまうのですから、子どもたちは真剣です。
そのとき先生がどう答えたかは忘れてしまいましたが、おやつに入ると答えたにしろ、入らないと答えたにしろ、その理由をキチンと説明できた先生というのは、ほとんどいないのではないでしょうか。
たいがいは、「入る」「入らない」という答えだけで、どうしておやつに入るのか、どうしておやつに入らないのか、ということまで、踏み込んで説明したりはしなかったでしょう。
先生の答えに納得の行かない子どもが「どうしてバナナはおやつに入らないんですか?」なんて聞いても、「下らないこと聞くな!」の一言で、その子どもの貴重な哲学的探求はストップさせられます。
な~んていうと大げさかな?
でもね、この簡単に見えて、下らないように見えて、ただギャグのネタにしか見えないような問いに、実は、人間の思考様式の面白さ、奥深さ、浅はかさがあるように思うんですよ。
だからこそ、あなたも、あぁ、下らないなと思いながらも、このエントリーの題名になんともいわれぬ衝動を覚え、無意識に突き動かされ、思わずここまで読んでしまったのではないでしょうか?
な~んていうのも大げさ?
この問いが少なからずの人の関心を引き付けていることは、Googleでの「バナナ おやつ」の検索結果を見ても、それなりにわかります。
人それぞれに、バナナはおやつだ、なぜなら…。
いや、バナナはおやつではない、なぜなら…。
と、語っています。
あなたはどう思いますか?
バナナはおやつですか?おやつじゃないですか?
そして、それは何故ですか?
■バナナはおやつです。
なぜなら……。
■バナナはおやつではありません。
なぜなら……。
■問いの構造
「バナナはおやつに入りますか?」
この問いかけは、YesかNoか、右か左か、有票か無票か、どっちなんだ、というような問いかけと同じく、「おやつに入るか否か?」という二項対立的な思考の枠組みを突きつけます。
その問いかけの前に、人は、その問いかけが前提とする思考的枠組みを無批判に受けいれ、その思考的枠組みに沿った形で答えを探しだそうとします。
「バナナはおやつだ」
「バナナはおやつではない」
というように。
■図と地
ところで、この絵は何に見えますか?
さ、どっち?
白い部分を背景だと認識すると、黒い部分が向かいあった人の顔として浮かび上がって来ます。
黒い部分を背景だと認識すると、白い部分が壺として浮かび上がって来ます。
「この絵は壺ですか?人の顔ですか?」
さ、どっち?
「この絵は壺だ。なぜなら…」
「この絵は人の顔だ。なぜなら…」
この場におよんで、そんなことは言いませんよね。
この絵は、白を背景として見ると、人の顔になり。
黒を背景として見ると、壺になる。
だから、無条件な、どっち、という答えはありません。
ある種の条件を前提に、どっち、と言えるだけです。
■文脈
バナナがおやつであるか否かも、無条件に言えるものではありません。
ある種の条件のもとに、バナナはおやつであり、バナナはおやつではないのです。
バナナをおやつとして見る人は、バナナがおやつである条件のもと、バナナをおやつとして見るのであり、
バナナをおやつでないものとして見る人は、バナナがおやつでない条件のもと、バナナをおやつとして見ないのです。
それらの条件を今、文脈、と言ってみます。
言葉の意味が文脈によって変わるのは、ご存知の通り。
バナナがおやつであるか否かも、文脈によって変わります。
例えば、お弁当箱の中にバナナが入っていた。
このような文脈でバナナをおやつということはできないでしょう。
ランチのデザートのひとつです。
例えば、3時頃、他のお菓子といっしょにバナナを食べる。
このような文脈で、バナナをおやつでない、と言うことはできないでしょう。
言葉の意味は文脈で変わります。
ですから、バナナはおやつに入るか否か、という問いに対する答えは、
「文脈によりおやつに入るし、文脈によりおやつに入らない」
ということです。
■
言われて見れば当たり前のことでも、言われて見るまでは気づかない。ってことはよくあります。
先ほどの図を見ても、壺として見てるときには、顔の部分は目には映っていても、顔として見えていません。
顔として見るためには、今まで自分が見ていた壺に対して一度目を閉じなければいけません。
そして今自分がどのように壺を見ていたか、ということを認識し、その見方を捨てたとき、人の顔を見ることができます。
バナナはおやつだ、あるいは、おやつでない、という一方の見方に人が固執するとき、自分がどのような枠組みでモノを見ているかわからないし、別の見方をすることも難しいでしょう。
■
今回、バナナはおやつに入りますか?という問題について考えて見ました。
そして、その問いに対して人がどのような答え方、考え方をするか、考えてみました。
そこにしばしば現れる人の思考様式。
それはバナナだけなのでしょうか?
あの人はいい人だ、悪いひとだ。
このやり方が正しい、間違い、だ。
イラクは、ブッシュは、コリアンは……。
「バナナはおやつに入りますか?」
そんな問題なんて下らない、なんて言わずに真剣に考えてみたとき、もっと大きな問題を発見するかもしれません。